みんながいい写真をアップするので対抗したくなりました。
今のワタシからは想像できない人もいるかもしれませんね。何が言いたかったかというと、
「過去は変えられる」と「大切なのは出会い」
1989年、何もかもが自分の思う通りに運んでいました。個人競技である競泳は、自分が努力した分だけ結果が出ます。ワタシはこの写真を撮った、堺市の公立高校の大会で2位でしたが、その3週間前に行われた大阪府の大会でも2位、3コースから飛び込んでいる、この翌年に1500m自由形で日本記録を樹立する一つ年下のY君と二人、1週間前に高知で行われたインターハイ帰りの泳ぎを見せようとスタートした瞬間です。試合会場になった高校の門では、何人か女の子がカメラをもってやってきて、「写真一緒にお願いします、できたら送るので住所教えてください」(ウソじゃないんだってば!)で、ワタシは迎えにきた女子大生(後のワタシの奥さん)の運転する車で去る・・・
しかしこの頃から、歯車は微妙に狂いはじめ・・・
小学校5年で出会い、高校1年から本格的にワタシを見てくれていたIコーチは、いずれは父親と同じ柔道整復師になって独立開業したいのなら、専門学校へ進み、朝と夜はIコーチがいるクラブでトレーニングをしながらアトランタを目指せばいい、と具体的なプランを用意してくれていました。ところが父に相談すると、
「まかりならん、俺は高卒で辛い思いをした、お前は大学を出ろ、それもスポーツに関係の深い大学だ」
と一蹴されました。父の勧める大学を見学したり、いろいろリサーチして悩んだ挙句出した結論は、
「父の言う大学には行く、ただし練習はIコーチのもとで続ける」でした。
翌年、推薦入学で入った大学の水泳部の練習に顔を出さず、自分の信じるIコーチのもとでトレーニングを続けながら自分にムチをいれたのですが、
「推薦入学で入ったくせにオレ流を貫くナマイキな1年生」
は、自分の通う大学の水泳部と同じ試合会場に居ること、それ自体がチャレンジでした。もちろん結果は出ない、ライバルは進学した先の大学で楽しそうにやっているうえに結果が出ている・・・逃げた先はオートバイ。
競泳選手でいる限り、怪我はご法度なのですが、怪我すれば、誰もがワタシが泳がないことに納得する、という気持ちがあったのかもしれません。競泳は続けながらも、週に1回、ミニバイク用サーキットに練習に通う生活がスタートしました。
オートバイのレースにはお金がかかるということで、水泳の練習のあとは黒のズボンに白のワイシャツを着て、黒いネクタイをしめて飲食店のアルバイト、水割りを混ぜるポッキー¥1000、カラオケ1曲¥200のお店で夜9時から朝の2時まで・・・
1990年秋のある朝、親に内緒で4万円で買った、ミニバイクをサーキットに運ぶ軽のバンで大学に向かう途中、横転し、バンは全損。頭を強く打って10日間入院、退院後プールに入ったものの、平行感覚だけでなく、やる気まで完全に失い、それっきり、Iコーチのクラブから足が遠のきました。その後も深夜のアルバイトやバイクのレースを辞めずにいたのは、ある意味自暴自棄だったのでしょう。
競泳選手としての自分はそのとき終わりました。そして、1992年春、大学を休学し専門学校に入学。
あの事故のおかげで、治療家への道が開いたんだと今は思います。
それから16年、アメリカで大学を出て、大学院を出て、ついにはメジャーリーグの舞台裏まで辿りつきました。そこで出会った選手がいきなり選手生命を左右するケガ・・・・アスリートとしては不完全燃焼でしたが、あのまま競泳を続けていれば出会うことのなかった野球の世界へ足を踏み込むことになり、そして治療家としては燃え尽きんばかりの経験を積ませていただくことができたんだと、今はそう思えます。
Iコーチとは・・・縁が切れたのではなく、
http://yoshiinthehouse.blog64.fc2.com/blog-entry-33.html#more
など、いつもワタシを陰から見てくれて、困った時には救いの手を差し伸べてくれました。そして今ワタシが教える学生何人かが通うバイト先は、Iコーチが支配人を務める施設。MTIの顧問を引き受けようと思ったきっかけもIコーチからの酒の席のお説教でした。
何度顔に泥を塗ったかわかりませんが、それでも事あるごとにワタシを呼び出すIコーチ・・・ああ、そういえば後にワタシの奥さんになる女性を受付のバイトとして面接・採用したのもIコーチでしたね。神様がいるとしたら、Iコーチの姿を借りて、ワタシを導いているのでしょう。最近はそうとしか思えません。その割には不義理を重ねていますけど・・・
人は必要なときに必要な人と出会う、一瞬早くもなく、一瞬遅くもなく。
すいません。
返信削除遅くなりました。
ジャンプの角度すごいですね!!
僕も中学の1年までは水泳をしていたのですが、かなり下向いて飛んでたと思います。
僕が言うのもなんですが、マンガのような壮大な人生ですね。
尾崎豊をイメージしてしまいます(笑)
「人は必要なときに必要な人と出会う、一瞬早くもなく、一瞬遅くもなく。」
なるほど~
深いですね~!!
先輩に声をかけられて参加したMTIも、自分が必要としていたから出会えたんですね!!
必要としていたものならば気合をいれていかないといけません!!!
頑張ります!
時間は未来から現在へ向かって流れてくると考える説もある!
返信削除我々は時間は今があって未来があると教育されたから、そう思い込んでいるだけで、実際の時間の流れは川に桃が流れてくるように上流と言う未来から過去という方向へ流れている可能性もある。
だとすれば、
「人は必要なときに必要な人と出会う、一瞬早くもなく、一瞬遅くもなく。」
は至極当然であると考えられる。
未来と言う事実が決まっててそれに向かっていってるんだから、当然予定どおりに予定どおりの人や物などに出会って通り過ぎていくのは当たり前ですよね。
だから、学生さんたちが、この大学へ入ったのも予定通り、MTIに入ったのも予定通り!この先どうなるかも予定通り決まってくると思います。
そこで、じゃ~この話を読んで、違う道を選んでやるってことでサボったり、止めたりするって思考を持つ人が出てくるかも知れませんが、それもそうすることが既に予定どおりなのです!
これらをして、「自分に起こることは全て自分の責任」というと、ある方に教えていただきました!!
ありゃりゃ~立場として大学を辞めた話を美化しちゃいけませんでしたね。本人としては、人生の谷底こそ治療家の道へのターニングポイントだったというハナシと、師匠との切っても切れない縁を描きたかったのですけど、いかんせん文才がないもんで・・・
返信削除母体から出て、へその緒を切られた瞬間、魂の世界から現実の世界に放り出される、だから赤ちゃんは泣く。人生という学びの期間と内容は、実はその魂の世界ですでに決められていて、そのプログラムを終える時、死した肉体と別れ、現実の世界から魂の世界に戻る。
もしそれが本当なら、母親がパチンコに夢中になっている間に車の中で放置されて熱中症で死ぬ幼児たちは何を学んだのだろうと切なくなりますけど、たぶん本当なのでしょう。
振り返ると、ワタシは何かを学生たちに残さないといけない定めなのでしょう。でも、こうして言葉にしてみると、なんか軽いですね、語るよりも行動で教育したいものです。
人は親を選んで生まれ、仕事には選ばれる
もまた真理なのですね。柔道整復の4年制への完全移行って、じつは親子2代に与えられたミッションだったのか・・・
みき君、ワタシの人生だけが特別にマンガのようになっているわけではありません、ワタシよりもっと波瀾万丈な人はたくさんいます、ただワタシのようにペラペラとしゃべらない、またはとんでもなく強烈な体験をしてるから人に言えない。
能あるタカは爪を隠してます、ワタシは能がないから、そして通ってきた道も大したことないから書けるのです。本当に凄い人は気配を消すチカラも凄いです。
母親がパチンコに夢中になっている間に車の中で放置されて熱中症で死ぬ幼児たちは何を学んだのだろう
返信削除=私的解釈としては、これは子が学ぶんじゃなく、親が学ぶんだと思います。なんと未熟であったかという後悔でもって、生きてる間苦しみ続けて学ぶんだと思います。そうい意味で、幼児が生まれ出たことにさえ一切の無駄がない!と考えられます。
柔道整復の4年制への完全移行って、じつは親子2代に与えられたミッション
=思いですね!
思いはすぐにはかなわない場合があるとおもいます。自分の代でかなうことと叶わないことがありますが、思いつづけてると次の代以降でかなってくるんだと思います。だから遺伝子を残すことが大事で、人は遺伝子を残す行為が何よりの至上命令なんでしょうね。プラス思いの遺伝子もきっと次世代の遺伝子に書き込まれるんだと思います。この場合は他人の遺伝子にも書きこまれるから必ずしも自分の遺伝子でなくてよい!
すぐ叶うと思うから今時の若いのは夢が持てないんだと思います。夢を言うと「そんなのかないっこないよ」と馬鹿にされたりするから夢をもつことに抵抗するんだと思います。もっと壮大に1000年後叶うでいいから、夢をもってれば、もう少し早く叶うと思います!!
次の1000年は何をかなえて行きましょうか~。